2003年8月のメッセージ

ロサンジェルスのエレベーター

今回は、ロサンジェルスの空港のラウンジからこの原稿を送っています。このラウンジはホットスポットになっていて、無線LANが繋がるので、ブロードバンドでネットができます。最近は日本でも、空港のラウンジやスターバックスなどでホットスポットが増えてきており、移動中に仕事をする私には大変便利です。ユビキタス社会[1]の到来を実感します。

さて、今回の出張は1週間ですが、サンディエゴの学会に出席してからニューヨーク経由でフィンランドのイバロという所で、日本ーフィンランドの会議に出席します。

その途中、カリフォルニアのドライバーズライセンスの更新をしました。アメリカではあらゆる場面で写真付きID(身分証明書)が必要で、車の免許証が日常生活に欠かせません。免許証はどこの州のもの(あるいは外国のもの)でも構わないのですが、とにかくこれが必要です。日本の免許証は英語で書いてないので、残念ながら通用しません。

カリフォルニアの免許の更新は5年に一度ですが、過去2年に無事故無違反なら郵便でもできます。普通はDMVと呼ばれる陸運局(それぞれの街にある)に行って、1時間もあれば写真撮影まですべて完了します。電話予約しておけばさらに早く終わります。安全講習などなく、更新費は15ドルです。筆記試験を受けさせられることもありますが、受付場所で問題をもらったらそこで30分ぐらいで解答欄にマークをして、その場で合否が決まります。落ちたら、直ちにもう一度受けることができます。後は、郵便で免許証が届くのを待てばいいのです。

一方、日本の免許更新は、安全協会という警察官の天下りを養うためにある仕組みが関わっており、世界中でとてもユニークで不思議なものです[2]。こんな形で、国民から必要以上の金額(更新の実費に対して全く高すぎる)を「強制的」に集める仕組みが日本にはたくさんあり、それらは特殊法人として役人の天下り先として、また国民からの不当で非合理な集金システムとして活用されてきました。これらの仕組みを維持しようとする官僚・族議員・圧力団体と、これらを廃止しようとする小泉首相をはじめ諮問会議の民間委員との駆け引きは、残念ながら、またしても骨抜きの結果に至りそうな様相にあります。ちなみに、ヨーロッパの多くの国では、運転免許は生涯有効です。

ところで、私がはじめてカリフォルニアの運転免許を取得したのは、もう25年前もことです。25年前にアメリカに暮らしたとき、免許システムのみならずあらゆることに日本との違いを感じました。

私が最初に暮らした木造の2階建ての安普請のアパートには、エレベーターが付いていました。ホテルでもショッピングモールでも大学でも、およそ個人の家の中以外はあらゆる建物に、必ずエレベーターがありました。

それが、アメリカ人が階段を上り下りするのが面倒だからではなく、身障者のためあることは、その後すぐに分かりました。街のあらゆるところで、車椅子の人達を見かけたからです。今でこそ日本の街でも車いすの人を見かけますが、そのころはほとんど見かけることができませんでした。街のインフラの問題だったのだろうと思います。当時からスロープも至るところにありました。駐車場で一番便利なところは、必ず車いすの絵がペンキで描かれており、違法駐車はもちろんのこと、健常者がそこに停車することさえ一度も見たことがありません。

片や、日本。阪大の工学部では、すべての学生が授業を受ける共通講義棟と呼ばれる3階建ての建物の2階と3階には教室が4つあるのですが、エレベーターがありません。私がいる応用物理学の研究棟は4階建てで、やはりエレベーターがありません。液体窒素などの重いボンベを、毎日学生が運び上げていて、とても危険です。学外からの来客の訪れる工学部の事務棟は3階建てで、ここにもやはりエレベーターがありません。

これでは身障者が健常者と平等に阪大で学ぶことができない、直ちにエレベーターを設置すべきだと、私は毎年毎年、施設委員長に訴えて続けて来ましたが、私の訴えは受け入れられてきませんでした。

いくつかの説明があります。文部省が認めないだろうとか、大学の施設部が認めないだろうとか、お金がないとか、予算要求には順番がありエレベーター設置の順番が来るには何年もかかるとか、です。耐震のための建物の改修計画があるので、それまで待ちなさいという説明もありました。建物の耐震改修の必要性と身障者に対する配慮とは全く別の次元の話であり、全く差別的発言でがっかりしました。

一昨年に、決してエレベーターを付けようとしない施設委員長と私は、ついに会議の中で激しい言い争いをし、そして施設委員長が交代になりました。それで、ようやく、エレベーター設置が要求の第1番に上がったのですが、今度は、エレベーターがすでに設置されている建物の一教授から、委員全員にエレベーター設置に反論するメールが流れました。趣旨はエレベーターのない建物の住人が「利益」を得るので、そこに共通の経費を使うべきでないという論理です。再反論が他の人からは無く、エレベーターは結局設置されませんでした。

差別のない社会を目指して誰もが授業を受けられるようにとの趣旨が、「損得」の論理に負けてしまったのです。
最近になって、大学にも、段差のある建物に入るためにスロープが付けられようになりましたが、スロープは建物の横か後ろ側にあり、身障者の人は遠回りを強いられています。ほんのちょっとした人に対する「優しさ」が、欠如しているのです。

このような心の通わないスロープの設置工事を決める委員会や施設部の役人は、「身障者用」とか「バリアフリー用」工事を、人の住まない所に高速道路を作ったり不必要なダムを造るのと同じセンスで行っているのでしょう。弱者を食い物にする発想で、悲しさ以上に恐ろしさを感じます。

日本の平等主義とはマイノリティーを差別し、日本の多数決決定とコンセンサス社会は、弱者をのけ者にするのです。病院の中で患者や家族が携帯電話を使えるようになりつつあるアメリカ、と携帯電話の使用を過剰に禁止する日本[3]とでは、弱者に対する多数者の優しさが違うのでしょうか?

久しぶりのアメリカで、国の本当の豊かさの意味を、改めて考えさせられました。
SK
[2]    猪瀬直樹、「小論文の書き方」文春新書、2001、今年5月号のメッセージ註3の本

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