2005年7月のメッセージ

科学は人が作る

日本の大学の多くの研究室では、学生が研究室に配属されるとまず英語の論文や学術書を渡されて、それらを読むように言われます。そして、皆の前で論文や本を順番に紹介していきます。輪講とか雑誌会とかいって、日本の大学の独特の勉強法です。その歴史は古く、司馬遼太郎の「花神」に、すでに今と同じスタイルの輪講を緒方洪庵の適塾でやっている話が出ています。オランダはもとより長崎からも遠く離れた大坂で、しかもシーボルトのような先生抜きで蘭学を学ぶためには、皆で互いに原書を読み合って理解を進めていくしかなかったのでしょう。しかし、先生なしに新しい科学を学べる素晴らしい教育方法だと思います。

私の研究室でも、Paper Review Seminarと呼ばれるセミナーが毎週開講され、学生がいろんな論文の紹介をします(河田研では公用語は英語なので、英語の論文を英語で紹介しています)。河田研で学ぶ外国人の学生たちにもこのゼミスタイルは好評なようで、帰国して大学教授になると、それぞれの母国でPaper Review Seminarを導入しています。今回は、このような学術的な論文を通して私たちが学ぶことについて、少しお話ししたいと思います。

輪講や雑誌会では、発表者は学術書や論文の中味を徹底的に解読します。そこに示される文章はもとより、式や実験条件、実験結果などを、徹底的にかつ細やかに解きほぐします。そして、著者に成り代わって皆に論文や本を説明するわけです。このときに発表者が興味を持つのは、論文のコンテンツ、すなわち論文に書かれた科学です。

実は、このことが私にとって少し不満です。私が興味を持つのは、論文の「中味」に加えて(あるいはそれ以上に)論文を書いた「人」です。この著者はどこの研究所(大学)のどの部門(学科)に所属しているか、その前にはどこで何をしていたのか、出身大学では何を専攻していたのか、共著者は上司なのか学生なのか共同研究者なのか、などです。そのために、紹介する論文の前にはどんな論文を書いてどんな研究をしていたのか、を知ろうとします。著者と参考文献に出てくる人たちとの関係や、著者がどうやって参考文献を見つけたのか、などにも興味を覚えます。学術誌や本は活字で印刷されて立派に製本されているので「人」が見えにくいのですが、その中味を書いたのはやはり「人」間であり、その研究や実験をしたのもまた「人」です。だから、本や論文はある個人の意見であり考え方を書いてあるのだと、考えるべきです。書いてる内容は事実でも真実でもなく、個人的な意見なのです。

論文を読むときには、それを書いた「人」に興味を持ちましょう。彼がどんな精神状態で書いたかも重要なポイントです。学位を取るのに論文が3本に必要だから書いたのか、科学の世界で有名になりたいからその論文を書いたのか、思いがけない大発見に興奮して皆に知らせたくて書いたのか、他の人に追い越されそうだから早めに自分の成果を示すために書いたのか。残念ながら、最近の日本では論文を書くことを目的として論文を書くケースが大変多く見られます。大学が教官の昇進や学生の学位の取得条件に論文の数を求めるからです。科学の発展を阻害する文化だと言えます。

科学は、人が創ります。科学は「真実」ではなく、人の目を通した「解釈」です。「人」を抜きにして「科学」を語ることはできません。大学の教養部でまず皆が苦しむのはマクスウエルの電磁方程式であり、学部で悩むのはシュレーディンガーの波動方程式でしょう。ほとんどの教科書には、マクスウエルの電磁方程式が整理されて羅列されているけれども、マクスウエルとはどんな人物であって、彼がどうやって電磁方程式を考えついたかについては、書かれていません。しかし、私たちは公式を理解(あるいは暗記)しようとするだけではなく、方程式を構築したときのマクスウェルの「心」を探ることが必要です。方程式とは人間が考えついた説明であり、人間としての科学者の心に触れようとすることが大切です。マクスウエルが電流を流体の流れのように磁場を渦のように見て、流体力学のアナロジーとして電磁方程式を構築したことは、多くの本に書いてあります。彼の電磁波理論は、彼の「解釈」なのです。

私は、欧米にいる私の研究のライバル達のことをとてもよく知っています。彼らの学位論文も前職も隣の研究室のテーマも研究予算の申請先も、そして人柄もです。相手もまた、私のことをとてもよく知っています。お互い、相手が今後どの方向に研究を進めていってどんな発見をするのか発明をするかを、予測すらできるのです。彼らの個別の論文の中味だけではなく、人としての彼らの経験や背景、個性を知っているからです。

日本では、「人」を見ずに活字だけを見ます。大学入試では面接や高校の先生の推薦による「人」の評価よりも、試験問題がすべてです。公務員試験でも、まずは記述試験です。大学でも、「人」は信用しないけれど「活字」を信用するので、口頭での事情説明は聞き入れられないのに、文書提出なら素通りすることが多々あります。誰が書いたか分からない文書が、すべてを支配するのです。何十年前に書かれた誰が書いたか分からない「通達」の類に、今を生きる生身の「人」が支配されています。学術論文だって誰が書いたか分からないのに、その数で昇進や学位が決められます。

活字に弱い私たちは、教科書や学術書に書いてあることを簡単に事実として信じてしまいます。何日も掛けて一所懸命読んだ本や論文の著者に会うと、歴史上の人物や今をときめくスターにあったような気分になります。欧米では、30歳代の若い研究者や教官が教科書や学術書を書きます。若いときの情熱は、自分なりの理解・解釈をもって、新しい科学や古典的なる科学に大胆なる理論を打ち立てます。遠く離れて日本で活字を通してその本を熟読した読者は、本の著者は年配の人に限られると思っていて、会ってみて著者の若さや著者が本を書いた当時の若さに驚きます。

いま理科離れが騒がれていますが、私は学者の「科学」至上主義にもその一因があるように思います。科学者はもっと「人」に興味を持っていいのではないかと思います。少年が科学者になりたいと志すきっかけに、科学者の伝記を読んだことがよくあると思います。湯川秀樹さんが夜中にアイデアがでたときにすぐに書き留められるように枕元にまで手帳を置いていたという話を子供の頃どこかで読んで、私はいまも手帳を常に肌身離さず持ち続けています。

今年3月に私は編集長をしている学術雑誌の編集会議に参加するためにフィラデルフィアに行きました。フィラデルフィアには、ベンジャミン・フランクリンの博物館があり、会議の後そこを訪問しました。雷雨中に凧を揚げて実験をして稲妻が電気放電であることを明らかにしたことで有名なベンジャミン・フランクリンは、避雷針の研究以外にも薪ストーブの発明や海流、地震、気象の研究など、多彩かつ多くの発明や発見があります。グラス・ハーモニカを発明したのもフランクリンで、実際にベートーベンやモーツァルトの前で自ら演奏したそうです。彼の研究のアイデンティティーを知るためには、彼の科学者以外の人生を知ることが重要です。この博物館には、彼が少年時代に船乗りを夢見て、その後ジャーナリストとして活躍する傍ら、ゴミの収集や消防組合の組織化や郵便制度を発明(考案)したことなども、パネルと映画上映で見ることができます。また、図書館の貸出制度や病院および大学の設立も行っています。とくに郵便制度には長く関わり、フランクリン博物館も郵便局の地下にあります。フランクリンは、政治家としても華々しい経歴を持ち、アメリカ独立宣言を起草し署名した一人ですが、そのすべてを見ると、彼は社会に役立つために生きた人であり、しかも官僚主義ではなく市民派であり(消防や郵便制度などもその一環)、発明は特許で独占しませんでした。

トーマス・エジソンもまた、社会に貢献する科学者であり事業家でしたが特許については大変苦労しています。発熱電球の発明(ソケットや配電盤など関連の発明も数多くあります)、火力発電所と電灯会社の設立、蓄音機・映写機・電気機関車など彼がいなければ、エジソンの科学と産業への貢献は歴史上いまなお最高のものだと言っていいだろうと思います。批判精神に溢れるエジソンは、フランクリンとは大いに異なる個性を持っていただろうと思います。エジソンは大学の講義を厳しく批判し続け、教育のシステム化が独創的な思考育成を阻むと批判していました。このような科学者の「人」を知ることなく、その結果の業績だけを見ても本当の科学は分からないだろうと思います。

さてフィラデルフィアを訪問した後、私はレーザー顕微鏡の国際会議に出席するためにニューヨークからドイツのイエナに行きました。この会議はアーネスト・アッベの死後百年を記念しての会議です。アッベは物理学者でしたが、カール・ツアイスに呼ばれて光学メーカーであるカール・ツアイス社に入り、顕微鏡やカメラ、望遠鏡などの結像理論を確立させた人です。科学者でありながら、カールツアイスの2代目社長になりながら会社の財産を放棄して財団化し、いまのツアイスの礎を築いた人でもあります。イエナにはアッベ博物館やショット博物館があるのですが、話が長くなりますので、今月はこのあたりで終わることにしましょう。

科学を知るためには、論文や教科書の活字読んで実験結果や業績を知るだけではなく、著者の科学者としての「心」を知ることが大切です。インターネットの検索エンジンが発達して、著者に関する情報は、昔とは比較にならないぐらい簡単に手に入ります。「研究」の「結果」ではなくその「プロセス」を追ってみて下さい。SK

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