2006年11月のメッセージ

「異端」と「いじめ」

昨年亡くなった友人は、その1年半前に生体臓器移植を受けていました。日本では海外とは異なり死体臓器はほとんど出てくることはありません。わが友人も生体臓器移植ができなければ、危険な状態にありました。血縁家族で適合する臓器を持つ人がいなかったのですが、奥様が臓器を提供し命が繋がりました。その時私たちは知らなかったのですが、日本移植学会の「倫理」指針では「親族」だけが臓器の提供者となれるのだそうです。そして日本移植学会の「親族」の定義とは、6親等以内の血族と3親等の姻族なのだそうです。親戚のいない人たちは、臓器移植を受ける資格はないということなのです。

親戚がいるかいないかで人の命が救われたり救われなかったりという、そんな差別がどうして「倫理」かと不思議ですが、メディアや学会はこの差別に対する後ろめたさを感じることなく、この「指針」を守らなかった地方の病院の医師を責めています。権力者・権威者たちは、命よりも先に指針とかルールの話をします。朝日新聞には、「異端」という文字が躍ります。医師は学会の「異端」なのだそうです。

臓器移植がなければ明日にも死ぬ患者が、私たちの目の前にいました。親戚ではなくても他人であっても臓器を提供してくれる人がいれば、彼を助けたいと願いました。6親等とか3親等とかを主張する学会の「倫理」は、死を目前にした人を前にして虚しく響きます。その医師は「捨てる臓器が有れば、よろしく頼む」と、同志の医師達に言っていたそうです。そして、病気の腎臓も移植に使われたそうです。「異端」医師は、学会や評論家やマスコミの格好の攻撃材料になっています。病院での記者会見が終わった後で、「病気腎」移植を受けた患者さんが登場したそうです。「病気腎」の移植を受けて、命を救われた人です。移植を受けた患者さんの執刀医医師への「感謝しています」という発言は、一部の新聞には書かれません。

「異端」児は、人と違うことをします。人と違うことをすると、日本ではいじめられます。日本のマスコミは、人と違うことをする異端児が嫌いのようです。ホリエモンを責めて江副さんを虐めて、東横イン社長を懲らしめようとしました。日本社会は典型的なる「村」社会であり、慣習に従わない人は「村八分」(この言葉が若い人に通じない)にされます。出る杭は打たれる、長いものに巻かれよ、と教えられます。昔から日本は「いじめ」の社会です。

最近の学校での「いじめ」は、決して新しい社会現象ではありません。学校は閉じられた社会であるが故に、昔も今もいじめが起きやすい社会です。子供達よりも先生間の「いじめ」の方が深刻だ、という話もよく聞きます。日本がいじめ社会であることは、日本社会が構造的に閉鎖社会(人の交流の少ない村社会)であることによります。

昔は「いじめ」を受けても自殺をしなかったのに、最近では自殺によって問題を公にしようとする子供達が増えてきました。子供達には「命」の重さ・大切さと、生きる「責任」を学んで欲しいと思います。いじめられることはとても辛いことですが、がんばって「異端」の誇りを持って欲しいと思います。地動説を訴えて「異端」審問所で有罪となり幽閉されたガリレオ・ガリレイは、「それでも地球は回っている」と、言ったとか。子供達も、負けないで戦い続けて欲しいと思います。

社会への新参者は「異端」児であり、いじめの洗礼を受けます。携帯電話の新参者である「ソフトバンク」がいま、「0円」広告と契約変更のトラブルで責められています。ソフトバンクの社長である孫正義さんは、通信事業の既得権益を破壊する「異端」児です。元・電電公社は、これまで電信電話事業を独占していたので、新参者がシェアを取りに来ると、「いじめ」をします。そして、マスコミがそれに乗っかります。誰も条件無しに「0円」だなんて思う人もいないし、この広告に対して客からの苦情もないのに、公正取引委員会が脅しをかけ始めました。いじわるで弱いものいじめが横行する国は、嫌ですね。公正取引委員会が圧力をかけるべきなのは、電話ラインを独占するNTTや、郵便ポストや郵便事業を独占する郵便局であって、新規参入者ではなかろうと思います。

子供達の自殺といじめとの因果関係に話題が及ぶと、必ず学校側による隠蔽工作が明るみに出ます。いじめを知っていながら公にならないように工夫していたり、発覚した後も「学校はいじめを把握していなかった」とか「いじめはなかった」といった嘘を付きます。これは、事件が起きると今度は学校や校長が責任をとらされて責められるから、世間に知られないように隠蔽しようとするのです。何事もない学校がいい学校であるのです。最近、一般社会では「内部告発」を勇気を持ってする人たちが出てきましたが、学校はまだそのカルチャーになく、子供達は自殺でもって告発するのでしょうか。

先月たまたま、「学校教育のせい?」というメッセージ[1]を書いたら、その直後から学校教育に関する事件が続出しました。一つは学校での「いじめ」による子供達の自殺の続出事件とそれにまつわる学校側の隠蔽工作の発覚ですが、もう一つは高校での卒業に必要な科目の履修不足事件です。履修が不足しているのならば補習をすればよいだけの話だと思っていたら、「救済策」という言葉が出てきました。授業を受けないで済ますことが「救済」の意味だそうです。高校の都合で教えてもらえなかった世界史をやっと学べることになってよかったと思っていたら、授業をしないことが救済、学ばないことが救済だというのです。さらに「不公平」という言葉も出てきました。すでに授業を受けてしまった生徒達が「損」をしたというのです。世界史を教えて貰って「得」をしたのではなく、「損」をしたというのです。ある宗教政党は、補習の「負担」を軽減せよと主張されます。受験の負担を軽減するのではなく、高校の必修科目の授業を負担だと言うのです。

これでは学校教育の否定そのものです。本音も建て前もなく学校の授業を受けないことが正義なのです。文科省から政党から学校に至るまで、気が狂ったとしか思えません。世界史の授業はしっかり行うべきです。極論すれば、世界史を学ばなかった生徒達は大学受験に失敗してもいい。それよりも日本の18歳として、世界史の教養を得るべきです。先月のメッセージで私は「大学受験を廃止せよ」と提言しました[1]。教養と知性、公と私、自分と他人、正義と倫理、科学と文化などなど、高校時代に学ぶべきたくさんの大切なことがあります。それよりも大学受験を優先してカリキュラムを組み、たまたまインチキが発覚すれば救済策とか不公平論が吹き出すといういまの狂った日本社会は、日本式の「受験制度」が産み出したと思います。世界の先進国に倣い、日本式のセンター入試を廃止すべきだと思います。SK

[1]    河田 聡、2006年10月のメッセージ

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