2006年1月のメッセージ

3σ(シグマ)のうそ

世界の人が知らなくて日本人だけが知っている言葉に「偏差値」があります。英語に訳すことができずに、geishaと同様にhensachiという英語にすらなっています。日本では、人の能力や成績は正規分布に従うと信じられていて、平均値の人が最も多く、平均値から偏差値以内に68%の人が入るとされます。非常に良くできる人やできない人はほとんどいないという考え方です。最小二乗法も、正規分布をとる確率変数に対する最尤推定法から導かれます[1]。最小三乗法でも最小四乗法でもなく、最小二乗法が正規分布に従う確率的な誤差に対して有効です。

しかし、「人」はサイコロの目や機械の精度誤差のような確率では表せません。人を平均値と偏差値で表すことは「間違い」です。人の成績や能力は、本人の努力や周囲との関わり合いによって確定していきます。それなのに、日本の教育者達は、人の成績をサイコロの目のような独立な事象として、偏差値を信じています。愚かなことです。

では、人の成績はどんな分布に従うのでしょうか。それは、ふたつのピークを持つ分布です。人は、成績のいい人の集団と成績の悪い人のふたつの集団に分離します。平均値当たりには、ピークはありません。例えば学校で算数や数学の勉強をしていて、どこかから分からなくなると、その後どんどんついて行けなくなって、成績が落ちていきます。その結果、学校を卒業するときには、脱落組と生き残り組のふたつに分極してしまいます。英語でも社会でも、音楽でも体育でも同じです。厳しいことですが、競争する仕組みの中では「勝ち組」と「負け組」のふたつに徐々に別れていきます。競争やゲームでは、引き分けは希なことです。私は、これを「シーソーの理論」と名付けています。シーソーでどちら側にも倒れないという状態をとることはとても難しく、結局は(体重×位置)の僅かの差で右側か左側のどちらかに倒れてしまうのです。

勉強でもテニスでも何でもいいのですが、毎日、昨日より1割だけ頑張ろうと思って生きていると、いつの間にかそれだけの力が自分に備わるようになり、さらにもう1割頑張ることができるようになります。明日に延ばさずに今日中に、もう1割だけ頑張るのです。それを10回繰り返すと、知らず知らずに最初の1.1倍の10乗の力が備わります。1.1の10乗は2.6です。逆に毎日、自分の持つ力の9割で済ませていると、そのうちに本当の実力も9割に下がってしまい、それを10回繰り返すと、0.9の10乗の力しか発揮できなくなります。これは0.35です。ほんの1割頑張る人とほんの1割サボる人とで、何と2.6/0.34=7.4倍の格差ができてしまうのです。小さな差が、勝ち組と負け組に分けてしまうのです。一方、平均値の人はいなくなります。「皆さん、ほんの少しだけ背伸びをして頑張りましょう、そうすればいずれ勝ち組になりますよ」と言うわけです。

日本では、「勝ち負け」は嫌いだという人が多いと思います。でも、勝ち負けがあることは我々の住む自由主義社会、資本主義社会の現実です。共産主義社会にすれば「勝ち負け」はなくなり皆が平等になりますが、人は機械のように一律に正規分布に従い、違いや個性が認められなくなります。

昨年マスコミが流行らせた最も不愉快な言葉は、「負け犬」です。結婚していない女性や子供のいない女性を負け犬だというのです。欧米では悪意のある差別発現として放送中止・発刊停止になりそうですが、日本では「公共」の新聞や電波にやたらこの言葉が載ります(とても日本のテレビ番組が公共の電波放送に資するものだとは思いませんが、フジテレビの社長や報道関係者は、好んで「公共」を口にされます)。いわゆるヒルズ族を「勝ち組」と称する報道も、不愉快の限りです。結婚するもしないも本人の自由であり、金儲けを目指すも目指さないも本人の自由です。人の「人生観」に「勝ち負け」論を持ち込む報道関係者は、健全な自由競争社会を安易に否定し共産主義をプロパガンダする悪意を感じます。悪意のない共産主義者であったマルクス、エンゲルスらによれば、共産主義社会では自分の子供ですら社会全体の共有財産であり、親ですら自分の子供を独占して育てることはできません。子供を産むとか結婚するとか言う行為が個人に帰属しなくなるので、理想的ま共産主義社会では「負け犬」という差別思想は生まれません。

一方、自由主義社会には競争があり、たとえ入り口が機会均等であっても結果は分極し、格差を生みます。ただし、競争に参加して勝ちを目指すかそうでない道を選ぶかは個人の自由であり、どちらが幸福かは勝ち負けとは別です。運動神経に優れない人がスポーツで人と争う必要はないし、数学の苦手な人が数学者になる必要もありません。他人に迷惑を掛けない限り、人の生き方は全くそれぞれの個人の自由です。

私にとって魅力的な人は、むしろ「負け」を恐れない人です。堀江さんも三木谷さんも村上さんもいわゆる「勝ち組」としてメディアに叩かれていますが、闘うものには勝利の日もあれば敗北の日もあります。大変な借金を背負いながらも、既得権益を得た巨大企業に闘いを挑む彼らの姿は、若者達に希望と勇気を与えます。彼らの挑戦はリスクのある闘いであり、明日は文無しになっても構わないという覚悟があります。数多くの立身出世物語の例を引くまでもなく、最近の「勝ち組」達もまた地方出身であったり、貧しい家庭に育ったり、在日外国人として差別されたり、大学を中退したり、いわゆる社会の出世コースから外れた「負け組」出身の方が多かろうと思います。日経新聞の「私の履歴書」を読んでいて面白いのは、敗北の中から勝利を得た人たちの半生記です。先日、アップルの創始者スティーブ・ジョブス(彼は高卒です)がスタンフォード大学の卒業式で講演したときの、彼の幼年時からの苦労話は若者達に衝撃を与えました[2]

これからの時代は「負け組」の時代だと、小説の中で暗に主張しているのは村上龍さんです。「半島を出よ」で日本を救ったのはいわゆる「負け組」であるホームレス、フリーター、ニートの人たちです。私もあちらこちらの講演会で「フリーターの勧め」「失業の勧め」の話をします。大企業に働きつつ準備をしてベンチャーを興して「勝ち組」のヒルズ族になる、なんて不可能です。もし本気でベンチャーをやりたければ、まず大企業を辞めて失業するのです。そうすると時間はタップリあるし、覚悟ができてしっかりと起業の準備ができます。負け組(失業、フリーター)になることは、勝ち組になるための必要なプロセスだと思います。サクセスストーリーの世界の集約地であるシリコンバレーは、失業の街でもあります。シリコンバレーのベンチャー・サクセス・ストーリーは負け組(失業者)達が生み出しているのです。負けたことのない人は、勝たないのです。勝負とは、勝ったり負けたりです。ベンチャービジネスは3回失敗しないと、成功しないと言われています。すべてのゲームに参加する必要などありませんが、もしゲームに成功したければ、3回の敗北経験が必要です。

日本では、負けることを恐れて平均を目指す人が多いのですが、これからは敗者復活のある社会と格差のある社会[3]が同時に訪れます。その中で、敗北は勝利へのプロセスだと思います。負け組と勝ち組、負け犬と勝ち犬は自由競争社会の人の生き方の表裏です。SK

[1]    物理学者であり数学者でもあるガウスが誤差を最小にする方法として考えました。正規分布はしたがってガウス分布とも呼ばれます。ドイツの10マルク紙幣にはガウスの肖像が載っていましたが、残念ながらユーロ紙幣になってガウスさんとは会えなくなってしまいました。
[2]    彼が未婚の母の子供であること、養子先は労働者階級であり養母は高卒、養父は高校も出ていないこと、自分はリード大学に入学したもののすぐに退学してしまったこと、しゃにむに働いて自ら創始したアップル社をマッキントッシュ発売後の1年でクビになったこと、などのエピソードをスタンフォード大学を卒業するエリート学生達に語りました(2006年6月)。もし読んだことにないよとがおられたら、必読です。あちこちに載っていますが、例えば、 http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404
[3]    格差社会についての本が、最近はやっています。佐藤俊樹「不平等社会日本―さよなら総中流」(中公新書、2000)はそのきっかけを作った本だと思います。いわゆるアンケート分析もので著者の学位論文です。世代を経て格差が生まれることが分析されています。ただ、確率統計が「人」の生き方には役立たないことは、このメッセージで私が主張していることです。スティーブ・ジョブズのスピーチを読めば、如何に確率統計が役に立たないことが分かると思います。この他にも最近多くの「格差社会」「下流社会」「階級社会」をタイトルに持つ書物がでていますが、よく売れている本の多くは不勉強でかつ偏見に満ちており、特に推薦できません。  一方、森嶋通夫先生の「イギリスと日本:正・続」(岩波新書、1977)は、当時の私に影響を与えた本の一つです。発展途上国の日本と成熟した英国というふたつの島国の文化の違いが明確に示されており、「平等equality」と「公平fairness」の違いなど多くのことを当時に学びました。バブル崩壊を経験し、いま格差のある社会を迎えつつある日本に住む我々にとって、いわゆる英国病を経験してきた英国の教育制度や経済を学ぶことは大切です。

Copyright © 2002-2009 河田 聡 All rights reserved.