2008年2月のメッセージ

壱万円札のひと

「西洋医学を学んだからといって医者にならなくてもいい」と言った緒方洪庵の適塾に憧れて「平成洪庵の会」まで作ってしまった私が、その塾生の一人であった福沢諭吉の書き物をこれまでじっくりと読んだことがありませんでした。ところが先月のメッセージ
[1] 
で紹介した梅田望夫さんの「ウェブ時代をゆく」に刺激をうけて「文明論之概略」を読み始めて、そこから「福翁自伝」そして「学問のすすめ」と読み繋いでいます。

多くの人がそうだと思いますが、私も一人の作品を読み出したらその人の作品を次々と追いかけてしまいます。個別の作品の中身よりも、なぜこんな作品を書いただろうと作者自身の人生に興味を覚え、作者の「こころ」に触れようとします。これは書物に限らず音楽でも絵画でも同じです。 「サイエンス」においても同じで、学生や研究スタッフが新しい論文の紹介をしてくれるとき、その論文を書いた人はどこの大学の誰のグループに属していてこの論文以外にはどんな研究発表があり、以前はどんな仕事をしていてなぜこんな研究を思いついたのか、などあれこれ聞きます。本当なら、その研究者の人生が知りたい。視力はいいのか運動神経は高いか、親の職業は何で兄弟は何をしていて、本人は結婚しているのか子供はいるのか、 小さいときにいじめられたことはなかったか、友達はたくさんいるのか、などなどです。なぜなら作品(科学的発見や発明も含めて)とは、「ひと」が生み出したものです。作者がいなければ作品は生まれないのです。宇宙の起源も光の量子論も進化論も万有引力の法則も、およそ今信じられている科学はすべて、有名な「作者」による「作品」に過ぎないのです。

福沢諭吉の話に戻りましょう。諭吉「文明論之概略」から
[2]

「所謂世間は、此の輩の間に生ずる議論にてまさに当世の有様を模出し、前代を顧て退くこともなく、後生に向かひて先見もなく、恰も一処に止まりて動かざるが如きものなり。」

封建時代が終わったばかりの明治6年に、諭吉は「世論のずるさ」が民主主義の原点にあると訴えるのです。平成の今、国の赤字が天文学的数字にまで増えても道路や新幹線を作り続け、病院はどんどん潰れていっても保険の自己負担割合を3倍に増やしても、それでも医療よりも道路造りを続ける。暫定ガソリン税を続けようとする。これは自民党が悪いのではなく、そのような政党を選ぶ「大衆」の意志なのです。民主主義の結果であり、変化を嫌う(恐れる)のが大衆なのでしょうか。

丸山真男さんはこれを、英国議会を批判して「多数による暴政」を主張するJ.S.ミルに諭吉が共鳴したのではないかと言います。多数決とは、平凡な人が多数を占めるときには少数意見を圧迫するというわけです
[3] 。私はこれは、諭吉自身の経験に基づく発想だろうと思います。「福翁自伝」に出てきます [4] 。以下抜粋。

「ソレカラまた政治上の選挙法というものが皆無わからない。(中略)さっぱりわからぬてどうにも始末が付かない。また党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬を削って争うという。何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サア分からない。コリャ大変なことだ、何をしているのか知らん。少しも考えの付こう筈がない。」

これは、中国で外国に行ったことのない学生と話をして得た私の経験と同じです。優秀なる中国の学生は科学技術や経済など大変よく理解できるのですが、議会制民主主義がどうしても納得できないのです。政権政党以外に野党があることが不思議で、一体野党は何をしているのか、と聞きます。共産党一党の方が効率がいい、腐敗があれば処分をすればいいだけだと考えます。うわぁ危険!、民主主義がまるで理解できていないと驚きましたが、諭吉が育った江戸時代にも幕府は一つしかなく、すなわち政党は一つだったのですから、諭吉も理解できなくって当然だったのでしょう。徳川幕府と豊臣幕府が選挙をして政権交代が生まれるなんて、想像もできないことでしょう。

もし徳川幕府と豊臣幕府のふたつがあったとして、民主選挙で政権交代をしていたならば、大衆に迎合する方が勝ったはずです(すなわち民主主義)。そうなれば、黒船に怯える大衆による攘夷論が勝ち続け、開国を迫る連合軍と全面戦争をし、その結果日本は植民地になっていたかもしれません。

諭吉は維新後すぐに、「出る杭」を打つ日本の「多数の暴挙」に警鐘を鳴らしていたことになります。まだ明治6年のことです。最近では政治を通してではなくテレビという電波独占ビジネスを通して、大衆は異端審判をします。ガリレオを審判したときの教会の役割を、いまはマスコミが受け持っているのです。ホリエモンやムラカミさん、グッドウイルや駅前ノバ、赤福、船場吉兆などなど、自ら新しいビジネスを始めた異端者・少数派を、大衆から視聴率という信託を受けてマスコミは代行リンチするのです。

もう少し「文明論之概略」を読み続けましょう。


「然るに今、世間に此の輩多くして其の衆口の喧しきがためにとて、其の所見を以て天下の議論を画くし、僅かにこの画線の上に出るものがあれば、則ちこれを異端妄説と称し、強ひて画線の中に引き入れて天下の議論を一直線の如くならしめんとする者あるは、果たして何の心ぞや」

郵便局を民営化しようとしたコイズミさんを変人と呼び、小選挙区制を作り細川政権を作り党首討論や副大臣性を作ったオザワさんを独裁者と呼び、ホリエモンやムラカミさんや江副さんの考えを異端妄説にしてしまうのです。だけれども、文明の進歩は異端妄説がもたらしてくれると諭吉は説きます。

「試みに見よ、古来文明の進歩,其の初めは皆,所詮異端妄説に起こらざるものなし」 「故に、昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然らば則ち、今日の奇説妄論も亦、かならず後年の通論常論なる可し。」

封建時代が終わったばかりの明治6年に福沢諭吉がこんなに先進的であったのは、彼が天才だからなのか奇跡だからなのか、「福翁自伝」を読めば、そのヒントが見つかります。この自伝の中で、諭吉は緒方洪庵と適塾での経験についてとても詳しく何頁にも亘って書いています。 この塾がいかに素晴らしいかが、分かります。諭吉の奇跡は、第一に22歳から25歳の時に過ごした適塾での経験があると思います
 [5] 

第二には、27歳の時に勝海舟について中浜万次郎たちと咸臨丸に乗ってアメリカに行ったことの経験だろうと思います。その後も29歳の時にヨーロッパに行き、34歳に再度渡米します。万延元年(1860年)にアメリカに行き、文久2年(1862年)に欧州に行った経験は、他の日本人と全く違った発想を彼に与えたことでしょう。

そして最後にDNAかもしれません。彼の父は中津藩の学者であり、その血を受けているのでしょうか。

諭吉は官において高位の役職を求めることなく(むしろ、要人と絶交したりしています)、「学問のすすめ」や「西洋事情」を記し、 私塾の慶應義塾を設立し、 社会に大いなる知的影響を与えましたが、「古風な頑固な日本人に嫌われた」と自ら回想しています。私は適塾の時代ではありませんが、安保闘争やベトナム戦争の時代(結果は違うけれど 、幕末に相当する革命を信じた時代であったと思います)に青春を生き、先生も教科書もない自主勉強を仲間達と経験し、20歳で初めて渡米、27歳ではアメリカに職を求めました。父も大学にいた人です。だから諭吉と少し似た人生経験をしているかもしれません。「学問のすすめ」が如くあちこちにメッセージを書き、異端・非常識といわれつづけて、大阪と東京を往復する生活をし、仲間達と「平成洪庵の会」なる集まりを主宰しています。西洋医学を学ぶ適塾で塾頭をしながらも血を見ることすらできず酒が大好きで
 [4] 、さらに政府にも学者に対しても極めて厳しい言葉を浴びせる矯激のひと [6] 、そして大阪生まれの諭吉に、私は親しさを覚えます。最後にもう一つ彼の言葉を、「文明論之概略」から


学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏りを恐るることなく、勇を振ひて我が思ふ所の説を吐く可し。
SK

[1] 2008年1月のメッセージ:科学者になろう
[2] 福沢諭吉、「文明論之概略」(松沢弘陽校注)、岩波文庫、1995
[3] 丸山真男、「文明論之概略を読む、上・中・下」、岩波新書、1986
[4] 福沢諭吉、「福翁自伝」(富田正文校訂)、岩波文庫、1978
[5] 藩校が中心の時代に、他国の人が集散する大坂の地で私塾として存在した適塾について、彼は福翁自伝の中で、

「江戸にいた書生が折節大阪に来て学ぶものはあったけれども、大阪からわざわざ江戸に学びに行くものはない。行けば則ち教えるという方であった。」

といっています。この後も大坂が江戸よりも優れていることの記述が長々続きます。江戸に行ってからについても「江戸に学ぶに非ず教るるなり」という節で

「毎度のことで、学者先生と称している人が読み損うているから、此方はかえって満足だ。」
と言います。
[6] 福沢諭吉、「学問のすゝめ」、岩波文庫、1942 の「解題」において小泉信三は、こう語っている。
「福沢は警世者の常として極言を憚らない人であった。」
「ことに「学問のすゝめ」には当初から矯激の文字が多く、今日の目をもって見て必要以上に嘲罵の言を弄して人心を激した嫌いがある画、しかし個々に福沢の面目があるのであろう。福沢は当たり触りのない事を言わなかった。」
などなど。

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