2005年1月23日のメッセージ

弔辞


元気だった頃の中村收氏。1999年6月8日、
日本学術振興会・未来開拓事業
「生体の計測と制御」国際シンポジウム
(阪大MOホール

中村收先生。中村君。Osamu。

痛恨の極み、ただ無念です。中村君が応物の3回生の学生の時に知り合って以来、もう23年になります。ふたりの関係も、教官と学生から卒業生、阪大に戻ってからは上司と部下、そして最近は同僚と変わりましたが、長く親しく研究も遊びもいつも一緒に過ごしました。正義心の塊の中村君はいつも手厳しく、それでいてユーモア溢れて皮肉たっぷりの冗談ばかり、皆を手玉に取っていました。君の回りはいつも笑い声で包まれていました。

生命機能の教授になる前は河田研の助教授として、特定領域Aの事務局や未来開拓のプロジェクト、近接場光学やレーザー顕微鏡の国際会議の事務局などを一手に引き受けて、私たちの研究室のすべて支えてくれました。研究室の公用語を英語に変えてしまったのも、中村君の決断でした。

応物教室や阪大、光学を愛する気持ちは誰よりも強くて、ずるいことや言い訳が大嫌いで、自分にも人にも完璧で(だから今回の病気のことも人に言わずがんばって)、たくさんの人に慕われ頼られ、どの社会でも若手のリーダーとして活躍していました。

40歳で生命機能研究科の教授になった時は大変な重圧だったのに、ナノとバイオとフォトンの新しい学問分野を日本に作るのだ、と張り切っていました。

病室でも、やりたいことがまだまだ山ほどある、と言っていました。歩くことができなくなっても、川崎和男さんに戴いた自慢の車いすに乗って、病室から研究室に抜け出して学生と研究の話をすることを楽しみにしていました。最後の最後まで、病床で一生懸命、手が動かないのに藤田克昌君の助けを頼んで本を書き上げようとしていました。

でも、すべてが終わりました。身体中のチューブや電極が酸素マスクが外れ、骨の痛みからもようやく開放されました。いま、やっと安らかに眠って頂けます。

病室でたくさんの約束を君と交わしました。辛いことですが、3人の子供さんが成長したときの姿を、僕たちは君に見せてあげることができません。でも、それ以外のことは、君がやりたかったことを、残された仲間たちと一緒に精一杯、君に代わってやりたいと思います。

ありがとう、中村君。ありがとう、Osamu。ありがとう、中村先生。安らかにお眠り下さい。

平成17年1月25日。
友人代表。河田 聡。

中村 收教授。2005年1月23日日曜日午前5時7分、阪大病院にて死去。1月25日火曜日午後12時30分、大阪・千里・桃山台、千里会館にて、大阪大学生命機能研究科・大阪大学応用物理学教室・中村家・合同葬儀。本文は葬儀にて読んだ弔辞。